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ノモア

no more, no less

議論をするチャンス

社会

アウトプットが重要だと言われるのは、異論反論によって、インプットされた情報の解釈が正されたり、より良い活用法を探っていくことができる可能性があるからだと思うので、社会にとって議論は必要なものだと思うのです。

 

でも、ロジカルシンキング(論理思考)愛好家等で議論をしていても、途中から感情論全開になります。

 

論理とは真理のことではなく、その状況に最適な答えのことですから、論理思考の結果が第三者からみて必ずしも正義であるとは限りません。

 

たとえば、万引きをした人がいたとして、目先・未来の社会秩序を考えるならそういった個人単位では微罪である犯罪でもしっかりとルールにそって対応していくのが「正しい」です。

でも、反省の色がうかがえる生活苦で初犯の人に、反省せず犯罪を繰り返し行う人と同じ前科をつけるのが妥当かというと、この「正しさ」には多少の揺らぎが生まれます。

 

その罪がどの程度のものなのかは、犯罪者の生い立ちや生活苦解消についての可能性、被害者側の生い立ちや損害状況、またそれを取り巻く社会状況など、件に関わる情報を、漏れなく過不足なく全てあげ連ね、論理的に整理していく必要があります。

 

でも実際はそううまくいきません。

漏れなく過不足なく等というのは机上の理屈であり、現実の判断材料というのは不足があるものです。

また、どんなに優良な情報をかき集めても、解釈するのは人間ですから、必ずどこかに主観やポジション思考が入ります。

 

では論理思考を離れるとどうなるかというと、主観やポジション思考によって判断される可能性が高まります。

 

議論によって導かれる答えには主観等が内包されていますから、個々の損得だけで正義を語るよりは議論をした方が建設的な答えを見つけられる可能性があるわけです。

 

 

議論を阻むもの

何が正義であるかを考える時は、多くの情報や意見が必要です。

そしてそういった情報を集めるための収集ツールが『議論』です。

 

戦争や感染症の問題などを考えると分かるように、共存社会では、個人の選択が他者へ影響を及ぼすことが多々あります。

社会にはルールが必要なのです。

社会において、多様性というのはただ違うだけでは厄介な要素ですが、議論場で発生することで存在意義が生まれます。

 

そう考えると、議論場での立ち居振る舞いというのが見えてきます。

 

まず私見は不要です。

個人の意見であろうが、何かを代表した意見であろうが、論拠を明確化すればいいだけだからです。

その意見に論拠がない場合は、まずそちらを論理的に解決していく必要があります。

数ある思考ツールは、主観を可能な限り排除させるためのツールなのです。

 

罵声も人格否定も誹謗中傷もふさわしくありません。

「ポストは赤いか」というお題に対し、「青とかいうやつは馬鹿」「青というやつは育ちが悪い」なんてやりとりは不適当です。

それではポストが本当は何色であるか分かりませんから。

 

では、何が感情論を旺盛にするのかといえば、自己保身や思考フィルターです。

人は自らの出した答えを正当かしようとする生き物で、自分の選択や意見を中々否定できません。

 

度合には個人差がありますが、誰にでもある程度は備わっている感覚です。

 

たとえば、イジメ加害者であっても、自分を真の悪だとは考えていなかったりします。

「イジメられるやつにも問題がある」

「イジメられる方がコミュ障なんだ」

「そのくらいで泣く奴がウザい」

「自分も情緒不安定だった」

「やっているのは自分だけじゃない」

彼らは必ず言い訳をします。

問題行為に至ったのは外的要因のせいであり、仕方がなかったのだと言いたがります。

法的に罰を与えてもアンラッキーだったくらいにしか思いません。

自分の身に起こる不運は、意見が異なる誰かのせいで被っていると思っているのです。

 

こういった責任転嫁は様々な場面で起こります。

 

 

議論をしていくうえで重要なのは、論理

論理を構成するものは沢山ありますが、代表的なのものは、

仮説・情報・知識・理解・訂正・定義・反証・予測・体感・結論

ではないかと思います。

 

 「ポストは青いと思う」と想起したのなら、それを構成要素にあてはめて考えます。

 

仮説=書き換え可能な推論を仮立てする

情報=他者の見解や動向、常識、考慮要素を知る

知識=文化、科学、歴史などと照らし合わせる

理解=相手がなぜ「赤い」と言っているのか等を知る

訂正=構成要素が不十分、または反証に対して反証ができなければ、誤りを認める

定義=考慮すべき範囲や前提条件を共有する

反証=嘘や間違いを証明する

予測=過去のデータから未来に起こる可能性を探る

体感=経験によって得た感覚を用いる

結論=論理とするもの

 

だとすると、青いポストの思想は、

 

仮説=○…要件を満たしています。

情報=×…常識的に考えると「赤い」です。 

知識=×…文化的には「赤い」とされています。

理解=×…先に反証が必要です。

訂正=×…「青い」とする論拠が不十分です。

定義=×…他の色を持ちだすのは考慮範囲を越えています。

反証=×…「赤い」という仮説について検証します。

予測=×…「青い」とすると、他色含め色名を共有できなくなりますが、考慮されていません。

体感=×…「赤い」という人の存在を知らなければ色名に拘る理由はありません。

結論=×…論理の構成要素を満たしていません。

 

となります。

実際に議論される問題はもっと複雑で、否定するための論拠ももっとしっかりしたものでなければいけませんし、人によってはMECEなどで脇固めしたいという人もいるかもしれませんが、大まかな流れはこんな感じではないかと思います。 

 

 

議論の肝

議論を行う際の鬼門は「定義」です。

ビジネスであれば、論理が必要とされている理由が定まっていますが、個人の持つ意見においてはあやふやであることが多いため、考慮範囲を限定するのも難しくなります。

 

たとえば、「宇宙は無であるか」というお題でいうと、「何をもって宇宙とするか」が定義にあたります。

 

宇宙とは、「大気圏を越えた地球以外の部分」なのか、「生命体を除いた部分」なのか、「惑星や惑星群の一部と考えられる部分以外の部分」なのか、等々。

 

常識とされていた科学が変わることがあるように、実のところ定義を設けるのはとても難しいです。

しかし、定義なくして議論を行うことはできません。

 

私達が尊厳死について語る時、「死とはどのような状態か」という前提を共有していないと、意見は相違のまま平行線となってしまいますよね。

「魂の離脱をもって死とする」という意見と、「脳の自発活動の停止をもって死とする」という意見では、死に対する定義が異なるため、尊厳死=合法殺人の是非について意見を合致させていくのは簡単ではありません。

 

面白いのは、最初はどんなに難しい専門ワードなどを用いて意見を出し合っていても、議論が深まるにつれ、馴染みのある言葉にスライドしていくことです。

議論の終盤ともなると、当初の高尚さとはかけ離れた日常論で落ち着くことも少なくありません。

 

なぜそうなるかというと、理由は2つあり、1つは、論理は真理でないので、理解されなければどんなに正しくても却下されてしまうからです。

論理はひとりでは見いだせないので、理解してもらうための努力が必要なのです。

 

2つめは、所謂「素朴な疑問」が定義から外れるものかどうか判断するのが、わりと難しいからです。

たとえば、「なんで燃えると熱いの?」などと問われると、「そう感じるようにできている」という中途半端な意見を、詳しく説明していくしかありません。

それでできるだけ納得してもらえるように、感情論に訴えるようになるのです。

 

議論・論理においては、そもそも論がとても重要なのです。

 

ただ、議論がどんなに難しいことでも、人間社会においての必要度は変わりません。

言い争いや誹謗中傷ではない、正しい『議論』をするチャンスが増えるといいなと思います。

そうでなければ、多様性は生かされ難いです。

 

みんな争いを嫌って議論を避けますが、本来議論には攻防戦などありませんし、そのスタンスが他者への尊重に繋がっているかどうかも分かりません。

なぜなら、多様性が生かされなければ、違いは<私の自由を阻害する>邪魔なものになっていくからです。

仕方がないと諦めることはできますが、居てくれて良かったという事にも成り難い気がします。 

それこそ、不寛容な社会を作っていく素ではないかと思うのです。

 

 

ブログと議論

とはいえ、その役割をブログが担うべきかというと、今のところ賛同できません。

 

「ブログに何を書こうが自由だ!」という意見には反対です。

個人であろうが、間違いを流布してしまうのは罪だと思うからです。

 

新聞やTVなどの既存メディアに正しさを求めるのは影響力があるからであり、ネットは個人にもその力を与えます。

真実性は、マスコミ同様、個人にも課せられるべきものだと思います。

 

ただ、ブログのコメント欄を解放することで叶うかというと、微妙だなと思うのです。

論理に対する立証や反論ではなく、ブログ筆者やその意見に対する賛否になってしまいますから。

 

なぜそうなるかというと、そのブログはブログ筆者のものだからです。

いわば、自室を公開しているようなもの。

体験談を持ち寄ることが目的ならコメント欄の開放は有意義かもしれませんが、議論をするとなると、どうしてもブログ筆者vsコメント欄になってしまいます。

基本的にはブログ主に手紙を出しているわけですから。

 

良識ある人達は、他人の褌で相撲をとったりしません。

特に昨今は「色んな意見があっていい」という風潮ですから、コメント書き込み者同士が互いの意見を否定しあうというのも難儀です。

 

正しい議論が行えるのであれば、ブログ主のスタンスによっては、建設的な議論が可能かもしれませんが、持ち主が定まっている以上、自由に振る舞うにも限界がありますから、やはり性質的に議論には向かないと思います。

 

BBSやコミュは、参加ユーザーに同列の権利が与えられていますから、まだ議論が行いやすいですが、ブログが同じ役割を果たせるかというと、現在のような仕様みでは難しいと思います。