ノモア

no more, no less

「伝える」努力、「察する」努力

「察してほしい」気持ちをなくせば夫婦喧嘩は8割減る - はなこのブログ。

 

この記事に賛同ブコメが沢山ついていましたが、相手次第の話ですよね。

たまたま受け止めてくれる相手であったというだけで、世のDV被害者の多さを考えれば、得策でないことは分かるはずです。

 

「察する」という行為は、争いを避けるための知恵です。

また、場合によってはそれ以外の解決手段を奪われていることもあります。

 

ブログには、喧嘩=悪いこと、とは限らないとあります。

そう思います。

 

でも、喧嘩の多いカップルは、傍目にもそういう感じの人達だと見えています。

人前で喧嘩をするかどうかは関係ありません。

特にパートナーと並ぶと、所作や思考の一辺から何となく分かってしまうものです。

 

ドンキカップルとロイヤルファミリーくらい生活スタイルが異なれば分かりやすいですよね。

どちらが良いという話ではないので、偏見云々ではありません。

環境は人に影響を与えるし、影響は差異となって現れるということです。

 

喧嘩の多い関係を理想的な関係というかどうかは、相性や好みの問題です。

何かを選択すれば、何かを失います。常に選択をしています。

 

確かに人間関係において、「伝える」という行為は重要です。

それもまた知恵のひとつです。

言葉にしても3割しか伝わらないのに、言葉にしなければもっと伝わりません。

 

でも、伝われば納得してもらえるとは限りません。

 

たとえば、上司に「この仕事をやっておいて」と言われる、親が子供に「勉強しなさい」と言う、そういった行為は効果的でしょうか?

 

強制力のある相手に言われれば渋々は行うかもしれませんが、納得はしていませんから、やはりどこかに「我慢」として蓄積される感情があります。

 

なぜなら、それは命令だからです。

言い方を変えても同じです。

やりたくない人や、自分のタイミングやりたい人からすれば、強制以外のなにものでもありません。

従う人は、トラブルを避けるために従うのです。

 

冒頭のブログでは、女性側に我慢が多い関係だったようですが、その我慢をやめたことで、我慢する側が男性側に移ったということです。

 

自分達がそれでうまくいったなら、それで良かったのでしょう。

自分の物語として書くなら問題ありません。

ただ、おすすめしたり、一般化して語るには少々問題を感じます。

言葉にしないからこそ上手くいっている部分、またそういう人達がいるからです。

 

感化されて悪い結果が生まれては困りますから、選択にはリスクがつきものだということも、合わせて説明してほしいなと思います。

若しくは、自分とまったく違うケースを想像してみて、それでも通る意見なのかどうか、考えてみてほしいです。

それができないなら、経験談や感想に留めて、啓蒙は控えるべきかもしれません。

 

 

期待値が高いとキレやすい - ハート♥剛毛系

 

こちらはたまに上がってきますが、わりと論理的な方だなという印象を持っていて、女性ブロガーの中では好きなブログです。

でもこの記事には賛同できませんでした。

冒頭のブログと、丁度逆の立場で、似たようなことを言っている感じですね。

 

DV男と付き合っている時、いつまでも暴言や約束破りをやめないので、堪忍袋の緒が切れて、相手と話し合いをしたことがあります。

私は冷静でしたが、彼は話しの途中で「我慢することない!我慢しなくていいから!」と大声で怒鳴りました。

 

私が彼のように身勝手に振る舞うことはできませんから、その言葉は、「付き合っていたいなら黙って従え」か「嫌なら別れろ」という選択を迫っていたわけです。

 

彼はそれまでの行いについて、何も反省していませんし、別れれば、私は何も代償を得られません。

未来をドブに捨てるか、過去をドブに捨てるかの選択です。

客観的にみれば未来を救う方が建設的ですが、被害者心理は簡単ではありません。

 

これについてはまた別の機会にと思いますが、

他人にそんな選択を迫られるっておかしいですよね。

しかも、相手は加害者です。

加害者に解決方法は選べません。

 

極論をいえば、「察する(我慢する)」のでも、「伝える(我慢しない)」のでも、どちらでもいいと思います。

 

ただ、正しい方のやりかたが選択された方がいいと思います。

言い方をかえていえば、被害者の望む方法を採用すべき、だということです。

 

また、「期待値が高いとキレやすい」というのは、あまり関係ないと思います。

DV男はよくキレる人でしたが、我慢もしなければ、常に全ての人を見下していて、誰かに依存することはありませんでした。

 

加害者でありながら被害者意識の強い(何でも他人のせいにする)人だったので、本人がどう思っていたかは分かりませんが、両ブログと同じ対処法をとっていたら、私はまだ病院で過ごしていたかもしれません。

 

お互いに言葉にすることで上手くいったなら、それはその人がワガママを受け入れてくれる人であったというだけのことです。

 

「察してほしい」が悪ものとされる不思議

本来はどちらに合わせてもいいですよね?

察しあえるならそれでもいいし、うまく伝えあえるならそれでもいいんです。

でもどちらのブログも、「伝えない方が悪い」というのを正しい前提としています。

 

「察する」ことの難しさと、「言葉にする」ことの難しさは同じです。

その人の性分によるものですから。

なのに、なぜ「言葉にする」ことだけが解決策なのでしょうか?

 

たとえば私は人に頼みごとをするのが得意ではありませんから、もしこのルールだけで社会が回るなら、頼みを受けるばかりで大損をします。

できないことに合わせろというなら、こちらに合わせろと言い返すしかありません。

条件は同じですから。

 

世の中は、正しさだけではうまく渡っていけません。

「曲がらねば世は渡れず」、現実問題を切り抜けるには処世術が重要です。

 

だからパワハラが横行するし、だからセクハラを笑って済ませますし、イジメを見て見ぬします。

関わったら損をする、と思う人が多いからです。

 

人ひとりにできることは限られています。

問題を解決しようと思ったら、その安易な悪意に対して、人生をかけて戦わなければいけなくなるかもしれません。

加害者と被害者は平等な立場ではありませんよね。

だからこそ多くの人はぐっと堪えて嵐が過ぎるのを待とうとします。

 

イジメ被害者に、「なぜもっと早く言わなかったんだ」というのは簡単ですが、もっと早くに言っていたら、もっと早くからプライドが傷つくことになっていたのです。

助けは求めた方がいいです。

でも、本人にはできないこともあります。

 

人間の自制心てすごいですよね、スーパーに行けば食品が沢山並んでいるのに、餓死を選ぶんです。

其処かしこに自分より弱そうな人が財布を持って歩いているのに、大抵の人はお金に困っても奪ったりしません。

社会福祉制度の有難さという話なのかもしれませんが、私は、人間には死ぬことよりも辛いことがあるのだと思うのです。

 

本人にできないなら、周囲が気づいてやればいいんです。

鈍感な人間であることは、社会規範においては何の免罪符にもなりません。

 

仕事でもこの問答ってよくありますよね。

「分からなかったら聞け」VS「少しは自分で考えろ」

報連相が大事」VS「自主的に動け」

というような。

 

これは「報連相+提案」をしろということで、どちらも必要ということです。

やるかどうかは給与額と相談しなければいけませんが。

 

処世術が大事なのと同じで、「察する」ことも大事です。

加害者が被害者の心境を察して改心していれば、周囲が気づいて助けてあげれば、起こらなかった事件や事故はあるかもしれません。

そうできなかった理由が、「相手が言わなかったから」で済まされると思っているなら、大きな間違いです。

人を思いやるのは義務ではありませんが、それは法律上の罰を受けないという程度の意味でしかありません。

 

そして、気楽な第三者は「カリカリするのは大人気ない」と誰かを責めます。

それは性犯罪被害者が責められる時の、野次馬の思考回路そのものです。

論理も把握せず感覚だけで答えを出す方が、よっぽど大人気ありません。

 

私は、『喧嘩両成敗』という思想が大嫌いです。

もしどちらも加害者であっても、過失割合が違うからです。

 

 

どちらも大事

伝えることは大事です。

言葉は知恵であり、人類の英知です。

でも、それと同じくらい、察することも大事です。

 

どちらも大事というだけでは、あまりに安易で無責任かもしれませんが、

100のケースで100回お願いごとをするのは、100回なにかを強いるということであり、手間を考えても非効率です。

せめて50回くらいは自主的に考えて 動けるようにならないと、互いに 負担が2倍になってしまいます。

 

独立した人間が寄り添う関係も、2人だけの時はどうにかなりますが、育児や介護など第三者への負担が生まれると、途端に危うくなります。

やりたくないことを沢山押し付け合わないといけないからです。

それが「産後クライシス」の原因の1つだと思います。

 

「産後クライシス」は、要求を伝えるだけでは解決しません。

共同作業が前提だからです。

誰に言われなくても育児担当は2人ですから、もし足りない部分があるとしたら、相手がサボっているということになります。

それをどう分担していくかというところが肝で、もし一方と同じだけの負担を感じていないなら、役割を果たしていないことになります。

 

サボる相手に指示を出す役割まで担うと、指摘する側の負担は大きくなります。

指摘する側は、分担をこなしたうえで、注意や要望を出すということまでしなければいけないことになるからです。

 

上司なら(理屈の上では)その労力分が給与に上乗せされていますが、夫婦関係において、指摘する側にはどんなメリットがあるのでしょう。

言い合う関係に躓かないとしたら、それは最初から傲慢な人だったというだけではないでしょうか。

 

かといって、同じことを分担するのも非効率的です。

それこそ負担が2倍になっていくだけです。

役割分担をする時は、特定作業の分担率だけをみても公平にはなりません。

もっと全体的な役割分担を考慮しなくてはいけません。

多くの人は思いやりをもって支え合っているとは思いますが。

 

伝えるスキルの向上と、機微を理解する感性を育てることは、どちらも大事です。

完璧でなかったとしても、それを目指すことでバランスがとれていくのではないかと思います。

 

「伝えたいことはキチンと伝える」のも1つの方策ではありますが、それだけではトラブルが増えます。