子どもに「謝りなさい!」と言っていませんか? - スズコ、考える。
このブログはいつもどこか宗教的ですね。単に非論理的なだけかな?
あまり器用な方でないのかもしれませんが、親が嫌われると子供も嫌われますから、もう少し賢くても良いのではないかと思います。
「他人の家の子育てに口出しするな」という立場をとっている方なので、「社会」として言及し、協力してあげる必要はないのかもしれませんが、犯罪者を育てられては困るので、やはり親の間違った子育てを完全に無視するのは難しいと思います。
嫌だなと思うのは、普通の主婦の偏った考察に賛同してしまう人がいることです。
正論である論拠は何もないのですが…何となく耳触りが良い言葉に流されてしまう人達がいるんですよね。
そのやりとりがカルト宗教的に見えてしまいます。
親は子育てに重大な責任を追っていますが、子育てが難しい作業というわけではありません。
労力のかかる作業ではあっても、テクニカルなものではないのです。
「何をしてやるかよりも、親のパーソナリティそのものが重要」だと言われていますが、その通りだと思います。
子育てが宗教になってしまうのは、親の視野が狭いからです。
たとえば今回のこの謝罪の話も、内と外で分ける視野の広さがあれば、もう少し見えてくるものがある気がします。
ケースバイケース
親子間での教育については、頭ごなしに怒っても子供は反省しないでしょう。
それは親子関係に限らず、大抵の人間関係で同じです。
むしろ反発心を呼び起こさせ、できる反省や後悔も遠ざけてしまいます。
二者間や内輪の問題は、謝罪を目的にしては根本的な部分を解決できません。
でも、他者に対する謝罪はこれと違います。
確かに、怒っている親の声の方がウルセーよってことはありますが、親が子供を注意することで、子供に敵意を向けられずに済みますし、謝罪は問題を悪化させないようにする人類の知恵ですから、子供のことを思うなら、条件反射でもいいから謝る習慣を身に着けさせた方がいいです。
また「謝罪」という行為自体を面倒に感じて問題を起こさないようにする人もいます。
他者にとっては、それでもいいのです。
まずは実害がないことが大事ですから。
私の知り合いに怒られずに育った人が何人かいますが、簡単に言えば「性格が悪い」人になりました。
怒られずに育った人は、社会規範に適応できないパーソナリティになってしまうようです。
謝罪の手間はストレスになるので、それ自体に抑止効果があります。
謝罪する選択肢を持たない人は、トラブルを起こすリスクが下がりますから、そのぶん注意をはらわなくなります。
他者へ謝罪する習慣はとにかく身につけさせた方がいいです。
選択の余地なく、これは親の義務として躾しなくてはいけません。
そうしないと、社会が一番望まない人間を育てることになるからです。
良い親、悪い親
2つのことを理解しておく必要があると思います。
1つは、「子育てができないなら産むな」ということです。
昔できていたこともできなくなっているくらい、子育てをしんどいものだと感じている親が増えているような気がします。
事件性を含むような虐待や育児放棄も横行しています。
そういった現実問題を飛び越えて、「社会には納税する労働者が必要だ」「出産育児は偉業なんだ」という反論が出てきますが、ろくでもない人間が増えるなら、機械化をすすめた方がマシです。
子供は、育てる覚悟のある人が産めばいいのです。
きちんと子育てできないのなら産まない方がいいです。
だからといって孤独に取り組めということではありません。
社会がサポートすればいいと思います。
でもそれは社会に口出しされるということでもあります。
勝手に子供を産んで、社会にサポートを求めて、それでいて口出しするなというのは、有りえません。
自己責任として一貫して取り組むか、自由を制限されてでも助けてもらうか、の二択です。
個人と社会との関係は、ジジババとの同居に纏わる問題や支援と同じです。
ジジババに金だけ出させて抱っこもさせないなんてクズ親ですよね。
2つめは、「社会人となる人間を育てている」ということです。
視野の狭い親は、自分の財産として子供を育てをします。
愛情をかけるのは結構なことですが、だから「無理に謝罪させるな」といった他者への配慮が欠けた論調になってしまうのだと思います。
可愛い我が子であると同時に、その子供はいずれ社会人となるひとりの人間であるということを忘れてはいけません。
子供の内は、多少謝罪ができなくても、多少わがままでも構わないと思います。
失敗をしなければスキルアップもできませんし、萎縮させて選択肢をとりあげてしまうのはよくありません。
無法な子供にイラッとする人はいるでしょうが、大人側にある程度の寛容さが必要です。
ただ、怒られて落ち込み、自分の内面と向き合っていくことや、評価されない経験を通して、自分の得手不得手を知っていくこともやはり必要な学びの作業です。
子供には「多様な経験」をさせた方がいいですが、それは旅行などの身体的経験ではなく、色んな心情経験を持たせることが大事だということです。
幼い内の身体的経験は殆ど忘れてしまいますから、あちこち連れまわすのは、親の退屈凌ぎ程度の意味しかありません。
でも、心情経験は違います。
それこそ心の柔軟な幼い内から経験を持った方がいい類のものであり、その経験の1つ1つが人格のピースになっていきます。
喜びだけでなく、苦い経験も、無駄にはなりません。
日本の子育て
必ず物事には利益的な側面と負の側面がありますから、海外と比べるのは好きではありませんが、子育てにおいては、日本はまだ確立したものが無いのではないかと思います。
よく過去と比べられますが、昔の日本は子育てが上手かったのでしょうか?
確かに、人手があったぶん知恵はありましたし、子供に人生を捧げる母親も少なくありませんでしたから、大人は自分の役割を理解していたと思います。
でも、子育ての内容を考えると、かなりザックリとしたものであったと思います。
実際、犯罪は今よりも身近なものでしたし、もし昭和の時代に今ほどの規制があったとしたら、国民総犯罪者かというくらい痛みだらけの社会であったと思います。
中絶率も高く、今でも田舎のジジババの感覚を知ると驚くくらい命の扱いが雑です。
村構造の日本社会は、儒教から儀式や形式だけを模倣し、情操教育なんてまともにされてこなかったと思うのです。
たとえば、欧米では子供の人権が強く保護されていますが、それとは別に、宗教が思想背景にあります。
極論をいえば、親が注意しなくても、他に天罰を与えるものがあり、魂の所在を個々人で選択できるわけです。
でも、日本人にはそういう感覚は根付いていないので、誰かが注意をしたり、罰を与えなければ、欲望は増幅していくばかりです。
あくまでも極論であって、欧米にだって法律はありますし、レベルが違う残念な人が存在しますが、日本人には法律以外に頼るものがないというのが難しい点です。
日本では人が直接手を下さなければいけない思想構造があるため、欧米の人権論・自由権利論をそのまま日本に当てはめることができないのです。
日本は歴史の浅い国で、今の生活様式だって100~150年程度のものです。
100年なんてヒト1人分の生涯程度の時間で、すごく短い年月です。
曾祖母だと女中さんがいた世帯もあるので、祖母世代辺りが考えた子育て方法をベースにしているということであり、完成されているわけがありません。
「古き良き時代」も「完成された知恵」もまだ無いのです。
まだまだ手探りの場面が多いと思いますが、ネットはその助けになると思います。
自分達が未熟であるということを理解して、一方的な感覚から結論を出さずに、まずは受け止めていく姿勢で協力を求めていくのがいいのではないかと思います。
親に必要なのは愛であってプライドではありませんからね。